田中喜次と持永只仁(計113分)

早退して行ってきました。

プロキノの委託による反戦アニメ『煙突屋ペロー』の監督としても知られる京都J.O.漫画部出身の田中喜次(1907−1982)と、若き日は独力で多層式(マルチプレーン)アニメーション撮影台を開発し、終戦後は新生中国の映画人にアニメの技術を伝えた持永只仁(1919−1999)。帰国後の持永は、糸繰り(マリオネット)でも手操作(ギニョル)でもない一コマ撮りの人形アニメーションを志し、この分野の祖として田中とともにその発展に尽くした。川本喜八郎をはじめとする後続の作家たちにも強い影響を与えている。
煙突屋ペロー(‘30・23分・16mm・白黒)
オモチヤ箱シリーズ 第3話 絵本1936年(‘34・8分・35mm・白黒)
セロひきのゴーシユ(‘49・21分・35mm・白黒)
つるのはね(‘56・11分・35mm・白黒)
瓜子姫とあまのじゃく(‘56・18分・35mm・白黒)
五匹の子猿たち(‘56・16分・35mm・白黒)
ちびくろ・さんぼのとらたいじ(‘56・16分・35mm・白黒)
日本アニメーション映画史より)